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2021.02.22

【桜の香水ができるまで】#番外編 「サクラ・マグナの品評(by ベセベジェ)」

桜の香りをつくる、と山根さんから聞いた時、止めねばならぬと思った。ついに万人受けの商業主義に奔ったりと天を仰ぎ、一筆直訴状をしたためて懐に入れ、オフィスの最寄り駅で山根さんを待ち伏せては取りすがって諌止せねばならぬ、と思った。

それほどに、僕は桜の香りについて良い印象を持っていない。なぜなら、これまで出会ってきた桜と名のついた香りのほとんどがまるで退屈を水に溶かして詰めたようなフルーティフローラル香ばかりな上、それが季節のめぐるたび、各ブランドがこぞって「さあ日本人のみなさんお待ちかねの桜の香りでござい」と、春の到来を急き立てるように吹き鳴らし、やがて店頭には白々しいほどにきれいなピンク色の香水瓶が並びだす。
この現象について平凡な分析を加えるならば、ほとんどの桜の香りが西洋的感性のもとに解釈されている、ということが言えるだろう。いわゆるチェリーブロッサムとしてのサクラは、文字通りサクランボの実をつけるミザクラでありのに対し、日本のサクラはその実をつけず、花自体にも香りはない。このあたりの詳しい話は、山根さんによる過去のジャーナル(サクラジャーナル #02 「なぜ”桜”を創るのか?」はこちら)にも書かれているので割愛するが、要するに、香水において桜の香りを表現するときには西洋的なチェリーブロッサムのイメージが持ち込まれ、その均質化されたイメージの結果、判で押したように退屈なフルーティフローラル香が並ぶことになるのだ。

ただ、これは致し方ないことでもある。香水というもの自体(作り手も含めて)主に西洋世界に根を下ろしているのであり、香水にかかわらず、ハリウッド映画で描かれてきた日本人像やヨーロッパの貴顕社会で流行したシノワズリやジャポニスムのことを思えば、なにも今に始まったことではない。現代最高の調香師の一人であるジャン=クロード・エレナが、1992年に「Eau Parfumee au The Vert」という、日本の緑茶をイメージした香りを創ったのだが、そのインスピレーションを得るために訪れたのがパリのマリアージュフレールだというから推して知るべしである。(※1)
いずれにせよ、香水は西洋的感性で生み出され、西洋的文脈で語られることが大前提となってしまっている。ただ、個人的には、このこと自体特に悲劇だとは思っていない。もちろん、これは日本の気候や社会では使いづらい香りだなと思うことはあるが、それでも少なくとも15年間、海の向こうからやってくる香水を僕は存分に楽しめている。私淑してやまない司馬遼太郎はその著書『この国のかたち』のなかで、島国ゆえの日本人の好奇心の強さについて書いている。辺境の島国だからこそ、海の向こうから流れ着く異国の文化文明に強いあこがれと好奇心を抱き、貪欲に取り入れてきたという。(※2)そのDNAが僕にも流れていると思うと、はるか海の向こうでつくられる香水への興味が尽きないのも、個人輸入に精を出すのも自然なことではないだろうか。と、そう、言い聞かせてきた。サクラについても、ただありきたりなフルーティフローラル香が個人的な嗅覚の好みにそぐわないというだけであり、ゆえにLIBERTAがそれを創るのであれば、あまりにつまらないじゃないかと思ったのである。同じく香水を愛する一人の友人として、山根さんたちの真意を確かめなければならないと思ったのである。
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しかしこのとき、きわめて重要なことを失念していた。ひとつは、僕が上に書いたような「別に西洋の感性でもいいじゃないか」という諦めに近い思想を、Liberta Perfumeは、山根さんは全く持ち合わせていないということであり、そのような人々が作ろうとする香りが退屈なフルーティフローラルであるはずがない、ということである。

皮をなめし、石で住居を作り、太陽までも被造物としてきた西洋の感性と日本人の感性が同じであるはずがない。食も、音楽も、映画も洋の東西それぞれの魅力が見いだされ、世界的承認を得ているというのに、嗅覚のよろこびだけが19世紀のアルチザンの蒸留機に置き去りにされてしまっている。これまでの香水の歴史を否定するのではなく、そろそろ僕たち日本人のための香水があってもいいんじゃないか。そう思っている。だからベジェさん、僕らが作りたい桜の香りってこういうことなんです。オフィスに着いて向かい合った山根さんはそう言って、1枚のムエットを渡してくれた。
それが、サクラマグナである。いったいこれを桜と呼んでもいいのだろうか。そう思ってしまうほど、あまりに意外なトップノートだった。浮かぶ光景は妖艶で恐ろしいほどに白く、‶チェリーブロッサム〟の花びら一枚つけ入る隙がない。唖然としていると、山根さんの言葉が継がれた。
「これは、実体のない概念としての桜、桜のヌシのような、少し怖くて、永遠にそこに咲いているかのような堂々たる桜なんです。」

そう聞くと、徐々に輪郭が浮かんでくる。なるほどこれは闇のなかに咲く桜だ。おそらく自らの意志を持ち、自然界の生死をつかさどり、六道の外に立って人々を睥睨する桜なのだ。日本人の記憶と物語の中に根を下ろしている桜は、必ずしも4月の目黒川を彩る桜と同じではない。そうだ、歴世、文人たちは身を灼くような創造の苦しみの果て、きっとこの桜に出会ってきたにちがいない。暗黒の中にそびえたつこの桜と対峙し、自らのなにかと引き換えに優れた作品を生み出したのだ。そうやってこの桜は、永遠のなかに咲いているのだ……。

でね、ベジェさん。山根さんの言葉で幻の光景の中から引き戻される。この香りの、ディスクリプション(説明文)を作ってほしいんです——
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その日、二つ返事で引き受けた僕は、小さなスクリュー管にサクラマグナを分けてもらい、パソコンに向かうたび肌に乗せてこの文章とディスクリプションを書いている。1か月が、経とうとしている。香水のディスクリプションは概してポエティックであるという前提に寄りかかり、下のようなものを書いた。ただ、香りの説明を放棄したつもりはない。この香りの魅力は、ひと言で言うなら「揺らぎ」なのだ。サクラマグナは、きっと相対した人それぞれにかたちを変えて現れるかもしれない。人々はそのとき、何を語るのだろう。たとえそれが桜の姿をしていなかったとしても、この香りは人それぞれの記憶や物語を養分に変えて確かにそびえ立っている。この香りに触れた人々が、自分だけの言葉でこの香りを形容し、対峙し、受け入れ、あるいは拒絶することができる。ゆえに揺らぎとは、希望でもある。日本人が自由に香水を楽しめる時代がこの瞬間から始まったのだとのちに振り返った時、過去という茫洋たる闇の向こう、偉大な桜の大木が標識のように立っているにちがいない。僕が触れたサクラマグナとは、そういう香りである。

【サクラマグナ】
—春。堂々たる桜の大木が満開の花を咲かせている。それは儚くも荘厳な、生と死、光と闇のはざまに立つ象徴としての桜。
トップノートのジャスミンサンバックとイランイランが、この物語が闇の中から始まることを告げている。徐々に現れる濃厚で力強いジャスミンアブソリュートが桜の輪郭を浮かびあがらせ、さらにイリスとバニラのアブソリュートが薄桃色の花弁の奥、ひっそりと、しかし艶やかににおい立つ脂粉のような香りがあたりを包む。この物語に終わりはない。散った桜がやがて再び咲くように、残香が肌の上を優雅に揺蕩いながら消えてゆく。
偉大なる桜。遥か昔から日本人の記憶に土深く根ざした大木の幹には、悠久の歴史がたしかに刻まれている。その木肌に触れようとわたしは手を伸ばす。一陣、春塵立ちのぼり、そして春の霞だけが残った。


(※1)
Jean-Claude Ellena、芳野まい訳、『香水ー香りの秘密と調香師の技』、白水社(2010)

(※2)
司馬遼太郎、『この国のかたち(1)』、文藝春秋(1993)

(2021年2月22日現在)サクラ・マグナの香りをご希望の方に、ムエットを配布しております。数量限定となりますので、お早めにお申し込みください。


プロフィール:
ベセベジェ@dantalionperfu6
香水好きの会社員。LIBERTAのコラムを担当。日本未上陸の香水からヴィンテージ品にも精通し、コレクションは200本を超える。好きな香料はリコリス、バニラ、サンダルウッド。

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