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2021.09.29

もみじを”狩る”ということ

LIBERATIONコレクションの三作では、偶然にも植物をテーマにしたものでしたが、それぞれの季節を象徴する「香りのないもの」ものが、たまたま植物であったということにあります。

 

インスピレーションの原点は、すベて私の中から生まれるものですが、作品をつくる過程において、非常にたくさんの”調べもの”をします。嗅いだことのない新しい香りでありながら、どこか出会ったことのあるような「心の琴線」に触れる香り。そのようなクリエーションするため、私たちの奥深くに無意識化にある、いわば「共感覚」のようなものを探るためです。

 

FRUCTUSでは、紅葉の美しさと枯れゆく儚さを表現しましたが、私たちが無意識のうちに感じている「もみじ」に対して持つ印象ではないでしょうか。今回のジャーナルでは、たくさんの”調べもの”を通してより深く知ることができた、もみじという存在について皆様にもご共有できたらと思います。

 

◎もみじを愛でるのは、日本人だけ?

 

私たちにとって、秋の象徴であるもみじ。慣れ親しんだ言葉でもありますが、植物としての「もみじ」という品種は存在をしていません。紅葉した「カエデ科」の植物を私たちは総じて「もみじ」と呼んでいるのです。そしてカエデ科の植物は、世界中に植生していますので、北半球に住む人々にとって、もみじは身近な存在である事は間違えないでしょう。

 

その中でも「紅葉」といえば、最も印象的なのは「日本」と「カナダ」ではないでしょうか。

 

日本では紅葉と聞くと、京都・奈良の寺社仏閣の情景が脳裏に浮かぶ人も多いのではないかと思います。古来より和歌をはじめとして多くの人の心を揺さぶる存在であったことがわかります。カナダは京都の情景以上に「メープル」の産地として世界的に有名です。真っ赤な「カエデ」が国旗となり、とろりとしたメープルシロップの豊潤な香りが思い出されます。

 

しかし、私たち日本人の感じる「紅葉」とカナダの「紅葉」は同じものを指しているのにも関わらず、そこから受ける感情は全く異なるものではないでしょうか。日本の紅葉でメープルを想像する人は少ないと思いますし、カナダのメープルをみて美しいとは感じる人はいると思いますが、散りゆく寂しさを表現したという話は聞いたことがありませんでした。

 

そもそもどうして私は紅葉に対して、美しさと寂しさを感じるのだろう…?

 

その疑問を解き明かすべく、私はたくさんの情報に触れるための旅に出ました。

 

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◎なぜもみじは「狩る」のか

 

もみじを鑑賞することを「もみじ狩り」ということばで表現されますが、どうして「狩る」というのでしょうか。由来は諸説あるのですが、武器を持たない平安時代の貴族たちが自然の中で「見つける」「探す」という行為を「狩る」と表現したことに起因するということがいわれています。狩るという言葉には、自然の中にあるものを自分のものにする、という意味があります。

 

しかし”調べもの”をしてみると、ただ「狩る」という解釈だけでなく、さらに深い背景があるということがわかりました。

 

それは、春と秋、そして桜と紅葉に関連する言い伝えに関連します。日本人は八百万の神に象徴されるように、万物に神様が宿るという考え方を尊重してきました。その中で、秋は「神様が山に帰る季節」であり、逆に春は「神様が野に降りてくる季節」だと捉えていたと云われています。

 

そもそも「もみじ」とは「もみつ」という言葉から派生しているのですが、もみじが紅葉する理由は、山の神様が葉を揉むことで色が染み出し、山々が紅く色付くと考えられてきた、という説があります。

 

古来の人々は、山々が紅く染め上がっていく様子を、神様が山へと帰っていくのだと捉えて祀りました。その結果、植物たちがもたらしてくれる「実り」は、神様が去った後に残るもの、いわば「神様からの贈り物」となるので、人間が狩ってもいいものだと考えたのです。つまり、紅く染まった紅葉を合図に神様が山々へと帰流ことで、全ての植物が実をたくわえて子孫を残し、私たちは「実りの秋」を味わうことができるという考えです。神様が去った後の季節である10月は「神無月」と呼ばれることからも、秋は神様が去る季節だということに繋がります。

 

逆に桜を狩ることがないのは、桜という象徴は「神様が訪れたことを告げる」ものであり、そこにいらっしゃる神様を狩ってはなりません。ゆえに、桜は狩るものではなく「お花見」というように見るものなのです。また「さくら」という語源は「神様が座る椅子」という意味から来ているとも云われています。

 

私は以前のジャーナルにも書きましたが、紅葉をみると「ああ、本格的に秋になったのだな」と感じるのですが、それは気温の変動があることに起因している(紅葉すると暑さがぶり返さない)のかと考えていましたが、もしかすると古来からの価値観が無意識下にも存在していたのかもしれません。

 

言葉の成り立ちや神話には、尾ひれはひれがつくので、信じるかどうかは皆さん次第ですが...。


◎もみじに対する価値観は変わりつつある?

 

別の話ですが、私は人々の中に眠る「共感覚」は、いくつかの要素でくくれるのではないかと感じています。例えば、宗教のような信仰はその最たるものですし、地理的な観点や生物学的な人種の差分による部分も存在していると思います。

 

そこでふと私は、お隣の中国や韓国でも、日本人と同じような「もみじの価値観」が存在しているのかを調べてみようと思いました。

 

まず韓国については、主に日本語・英語の文献を探ったせいか、あまり紅葉に言及するようなものを発見する事はできませんでした。しかし紅葉の名所と呼ばれるような観光地の情報はあるので、景色として楽しむという価値観はありそうでした。

 

次に中国については、日本の大学で研究をしている方のコラムなどを呼んでみると、実はもみじに対する価値観が変容しているということが書かれていました。中国ではかつて日本と同じように、紅葉を愛でるような美しさに共感する詩が詠まれていたのですが、時代が変遷するとともに「紅葉=血=死」ともいうような、悲劇の死を連想させるものへと移り変わっていったようなのです。

 

確かに真っ赤に燃える紅葉は、血のような印象も受けますし、中国の歴史物のワンシーンで紅葉の前で悲劇の死を遂げる…といった情景を想像するのは難しいことがではないように思います。近年では、春の桜のように情景として愛でる価値観も再形成されるようになったとも書かれています。

 

このように同じ東アジアとくくられるような地域においては、大きく価値観がずれることのないようにも思いますが、やはりその土地ごとに少しずつ価値観は異なっています。

 

私たちは、ヨーロッパで生まれた「香水」という存在を、私たちなりのフィルターを通してクリエーションし、身体に纏います。無意識のうちに、私たちだからこそ表現できるような価値観が介在しており、そこに個性としてのユニークさが宿るのかもしれません。

 

リベルタパフュームでは、みんなが自由に好きな香りを纏い、自由に楽しむことを目指しています。人によって香りの好みが異なる、ということも、同じ場所で生きていながらも、その人らしいユニークさが宿っているということなのでしょう。これからも、私たちが、私たちのための香りをクリエーションすることで、そんな世界に少しでも近づけるようになったらなと願っています。


プロフィール:
山根大輝@NY406
Founder&CEO。大学卒業後、コンサルティングファームで働きながらパルファンサトリで調香を学ぶ。好きな香料はプチグレン、ネロリ、ガルバナム。LIBERTAはグリーンタイプを愛用。

 

(参考文献)

 

『日本人の紅葉を愛でる心から見る自然とともに生きる日本人の心』

一般社団法人全国日本語学校連合会

 

『国文学作品から見た日本のもみじ観とその成立過程』

西尾 理恵 歴史文化社会論講座紀要

 

『中国と日本の楓情緒』

朱新林(山東大学(威海)文化伝播学院)

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