カート

2021.01.26

わたしの初めての香水(後編)

前編はこちら
期せずして小分けられた母の思い出を切符とともにポケットに入れ、電車を乗り継いで梅田の阪急百貨店に着いた僕は、ラルフローレンへ向かった。幸い、父の買い物について行ったこともあるので店舗自体には多少馴染みがある。ところが、自分の香水を買うという空前の目的をもって店内に入ってみると、見慣れたはずのマホガニー調の什器も、ダブルブレストのスーツにレジメンタルのタイをしめた店員も、あの馬上でスティックを振り上げている影の男までもが途端に僕を緊張させる装置に変身してしまった。ひとまず心を落ち着け、所在なげに服を見るふりをしながら「香水を探しています」のひと言を頭の中で何度か練習して機会を伺う。間違っても声が裏返ったりなどしてはいけない。しかしまったくーー母に聞いたときもそうだがーーこの簡単なひと言にいったいどれだけの量の鉛が詰められていたというのだろう。香水とは、そんなにも思春期の少年を赤面せしめる言葉だったのかと、今となっては滑稽なほどである。
さて、いっとう優しそうな店員に声をかけようと店内に目を走らせたその時、入り口近くにいたレジメンタルタイの店員が(以降レジメンタルさんと呼ぶ)、たとえ相手が不審な中学生だとしても関係がないといった風の落ち着き払った低音で、声をかけてきた。

「何かお手伝いしましょうか?」
「あっ、そうですね、えっと、香水を探してまして……。」
「香水ですか、そしたらこちらへどうぞ。」
そう言ってレジメンタルさんは、店内の奥へ僕を誘導して椅子に座らせた。テーブルカウンターの向こうに回ったレジメンタルさんはキャビネットから香水を取り出し、

「いまうちで扱っている香水は」

と流れるような手つきで5つの香水瓶を目の前に並べてくれた。僕は、並んだその瓶たちをみてしばし静かな興奮に襲われた。金のキャップがついた深いグリーンのボトルや、中心にエンブレムが嵌められたガラスボトル、琥珀色の液体……。ちょうど、DVDで観た『セントオブウーマン』で革張りのソファーに座ってウイスキーを飲むアル・パチーノの姿が浮かんでくるようなその光景は、大人の階段を登ろうとする僕を祝福するようにキラキラと輝き、同時に、分不相応をたしなめるようなわずかな拒絶の雰囲気を滲ませていた。

「どうしますか、全部お試しになりますか?」

レジメンタルさんの言葉で我にかえった僕はとりあえず頷く。すると彼は抽斗から名刺大の厚紙を何枚か取り出し、ロゴが印刷されたその厚紙に一つずつ香水を吹き付けていった。ムエットというフランス語の呼び名などはこの時もちろん知る由もなく、ブランドのこだわりなのだろうと見当外れな感心をしつつ、記念すべき生涯第1枚目となるムエットを鼻に近づけた。 そして素晴らしい香りに感動して初めての香水をただちに購入、愛香家としての人生が華々しくスタートした……。

と書き終えたいところなのだが、実際そうはいかなかった。現実の人生は文学的文脈など無視して進行する。
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直後、僕は失望に包まれた。なぜなら、ムエットに吹き付けられた香りはどれもツンとしたアルコールのにおいが先立ち、ああやっぱり香水とは強くてキツいものなんだとがっかりしてしまったのだ。
僕の困惑した様子を見てとったレジメンタルさんは、うちのはちょっと濃いめの香りが多いですから、と微笑みながら、それぞれの香水の名前をムエットに書き込み、またいつでも試しに来てください、と中学生の冷やかしを怒ることなく5枚のムエットを渡して出口まで見送ってくれた。

阪急線に通じる地下道を歩く。期待が外れた。香水はやはり僕には向かない。そもそも、両親の話は20年近く前のことだ。いくら肉親の思い出とはいえ、それを13歳の今の自分に持ち込むことにどだい無理があったのだ。
落胆を肩に乗せて家に帰り、どうだった?と言う母に、期待外れだったことと成果は香りのついた厚紙5枚のみだと告げる。あらそう、と母は少し残念そうにしてから、ねえ、POLOはある?と聞いた。僕はポケットからPOLOと書かれた1枚を母に渡す。母はそれを嗅ぐと、まあ懐かしいわ、と数秒前息子の悲嘆に同情したことなどさっぱり忘れたようにひとり恍惚としはじめた。よもやこれが目的だったのではないかと猜疑の目を母に向けつつ、自分も適当な1枚をなんとなしに鼻へ近づけた。

そして僕は、香水を知る。
ムエットから香るその香りは、さっき店頭で試したときとまるで違うではないか。アルコールのキツさが去り、丸みを帯びたように穏やかで、まるで森の中で深呼吸をしているようだ。慌てて他のムエットも確かめると、どれも不思議なくらい香りが変化している。中でも、ROMANCE SILVERと書かれたムエットからはなにか、こう、とにかく良い香りがする。母を思い出から呼び戻し、その驚きを伝えると、あら香水ってそうなのよ、とさも当然とばかりに答えた。さらに続けて言うには、肌に乗せると紙とはまた印象が異なるため、それを確かめてからでなければ買ってはいけないらしい。なぜそんな重大情報を出発前に言わなかったのかという非難を丸めて飲み込み、僕はコートを掴んで再び家を飛び出した。なんだか、いてもたってもいられない。紙の上で音もなく、魔法のように香りが変わった。それを自分の肌で試してみたい。好奇心と期待が電気信号となって僕の体を駆け巡り、足どりを速からしめる。香水って、もしかしたら、面白いかもしれない。

阪急百貨店に着いた僕はエスカレーターを上がり、ラルフローレンへ向かった。マホガニー調の什器は僕を暖かく迎える。レジメンタルさんは一瞬驚いたのち、きっとどんな時も変わることのない普遍的な笑顔でお帰りなせいませ、と言う。馬上でスティックを振り上げた影の男が、よう、戻ってくると思ったぜ、と言ったような気さえした。
ロマンスシルバーを腕につけて欲しいんです。その言葉にはもう鉛は詰められていない。レジメンタルさんは、名前の通り鈍い銀色をした四角い香水瓶を取り出し、僕の腕に吹き付けた。一瞬のアルコールが立ち、やがて「良い香り」が僕を包む。この香りを理解し、表現できる言葉を知らないことがたまらなくもどかしい。
少しだけ、香りが大人びすぎている気もする。けれど僕はこの香水を買うことに決めた。この香りが、僕の最初の香水でなければならないと決めた。両親の記憶。美しいガラス瓶。アル・パチーノ。魔法のような香りの変化。肌から香る大人の香り。そして表現できないもどかしさ。この日、数時間のうちに起こったすべての出来事と感情の奔流が、僕の香水人生のスタートラインをかたちづくった。
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あれから15年、手持ちの香水の数は増え続け、今や日本にまだないニッチフレグランスやヴィンテージ品にまで手を出すようになった。試してきた数は数千本を優に超えているだろう。正直に言えば、今ROMANCE SILVERの使用頻度は決して高くない。けれど、小遣いをかきあつめて小銭混じりの7,000円で買ったその香水をつけると、今でもあの日のラルフローレンでの出来事を思い出す。残念ながらレジメンタルさんはもういない。ROMANCE SILVERも廃番になってしまった。しかし、記憶の中に漂う香りはいつまでもそこにある。
あれから15年、ようやくあの日数時間のうちに起こったすべての出来事と感情の奔流を、こうして拙いながらも言葉にすることができた。この文を書いている間、毎日ROMANCE SILVERを腕に乗せていた。目を閉じて鼻腔を香りで満たすと、記憶の断片が繋がりをもってよみがえる。おかげでずいぶん長い文になってしまった。ただ、許されるなら、もう少しだけあの日のラルフローレンの店内に立っていたい。
書き終えて僕は、再び目を閉じて香りの中へと沈む。よう、戻ってくると思ったぜ、と影の男の声が聞こえた。

プロフィール:
ベセベジェ@dantalionperfu6
香水好きの会社員。LIBERTAのコラムを担当。日本未上陸の香水からヴィンテージ品にも精通し、コレクションは200本を超える。好きな香料はリコリス、バニラ、サンダルウッド。

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